末期の大腸癌治療と“漢方はり治療”からの考察

                  滋賀  二木 清文

 

   1.はじめに

医療に携わる立場になるといくつかの避けては通れない壁に立ちはだかられます。『死』 と言う問題は、自分を含めて人間が必ず一度は通る関門でありながら誕生とは違って非常な悲しみを伴う大問題であります。今回は“漢方はり治療”による末期の大腸癌への取り組みだけでなく、どのように素晴らしい最期を迎えられるのかへの私なりの取り組みを報告致します。

 

   2.初診時の様子

  初診  平成九年五月

  患者  三十歳、女性、二児の母親、当院へは腰痛と不妊で来院してからの付き合い。従って七年近くを診察しており、様々な病症を持ち込まれて来ましたがいつも漢方医療への信頼は厚く、逆に言えば現代医療システムの不合理性をわきまえて自己の選択を押し通していたかも知れません。

数年前に患者の叔母を診察し、既に手の施しようのない胃癌である事を診断して大病院へ送り二ヶ月ともたなかった経験があります。

  主訴   腹痛と腰臀部痛。

  望診   一年前までは太り気味で困っていたはずなのに、極端にやせて顔色は真っ青。

  聞診   弱々しく小さな絞り出すような声。

  問診   あまりの便秘に耐えられず下剤を使用した所排便はなく激しい腹痛に耐えられないと助手から報告を聞きました。しかし、患者の様子がおかしいのと脉状の異常さから詳細は口述しますが、問診と同時に脉を見たこの時点で私はガンを診断しました。他の医療機関の受診状況を尋ねると既に3週間前に検査入院を終えていると言います。口ごもっているので勇気を出して ガンの脉にみえると告げると、ファイバースコープでも一カ所発見されているが便に邪魔されてあと何カ所あるのか見当がつかないと癌を告知されていました。

思い返せば約一年前の夏に腹痛と持続的な下血で患者は来院をして来ました。腹痛は簡単に治まったのですがそれにしては脉の騒がしいのが治まらないのと持続的な下血は気になるので検査データを取って来るように指示をしたのですが病院へは行かずにとりあえずの苦痛が取れたので勝手に放置をされてしまいました。この時にもっと強制的にでも原因追求をすればあるいは大腸癌は進行を止められたかも知れないと、治療中に何度もお互いに繰り返す事になりました。

  切診   切経では脾経と胃経がはっきりと触れるのですが以上感覚で当然虚していました。腹診では便が詰まって硬く触れる大腸だけでなく古いホウスのように蛇行している小腸までがはっきり触れびっくりしました。脉診ですが過去の経験から、人工透析を行っている患者の脉のように指がしびれるような感覚を思い出していただけると近いと思うのですがまるで脉の中に虫がはいまわっているようなとても嫌な感じはガンの脉と診ています。このケースではさわった瞬間に顔が青ざめてしまうほどはっきりガンを確信し同時にこちらが気を失いそうになりました。従って初回はそれ以上の脉状を覚えていません。

  病理考察  内臓全体の不調和は脾胃の不調和であり、そこに起因するC血に身体は汚れ切っています。さらに脾胃が働かない為に腎に貯蔵すべき津液も不足をしています。ところがC血と言っても血全体が不足をしているのでまず腎を補って脾胃を働かせ全身を活性化させる事も考えましたが、津液を作る能力すらないのですからこれは無理です。C血は相当に頑固そうなので肝実に対して七十五難を用いる事も考えましたが、七十五難では脾は平となっていなければならないのでこのC血処置も無理です。従って脾虚証はゆずれないものとなります。問題はどのようにC血(肝実)を処理するかですが、やはり営気にたいする手技を用いたいと考えました。すると胃経に営気に対する手法を行えば六十四難で腎を救う事にもなり、あらかじめ心(診法)を補っておけば腎が救われる事によって肝実も血の流れによって救われます。従ってこれはC血に対する脾虚肝実証の病理と完全に一致をします。

  治療  治療側は右で心包経の大陵を補い、続いて右胃経の三里に営気に対する手法を行います。続いて右小腸の支正を瀉しました。初回でもあり背部は散鍼と腸骨陵の上下特に臀部側を丁寧に緩めて終わりました。患者にはとにかく希望を捨てずにお互い真剣勝負で共に闘う事を誓って初回を終えました。

 

    3.経過

初期は1日おきで治療を行いました。驚いた事に初回の治療後にはこんなにお腹にたまるものなのかと驚くほど2時間おきに大量の排便がありすっかり体調も胃腸も改善したかのようにも思えました。ただ夜間になると臀部から下肢にかけて自発痛があると言います。その痛みは次第に増悪し本地方は同じながら臀部を中心に処置をすると快調になるのですが長続きしません。自発痛がひどいので 骨盤転移ではないのかと尋ねられましたが放散痛の範囲は狭く動いているとましなので大きな転移もなければ癌直接の痛みではないと推測される旨を伝えておきました。

患者とは初回からの約束で もしどうしても痛みが止まらなくなった時には痛み止めの薬が必要だし、検査をする事は有意義だから病院もケンカをせずに引き続き受信する事を約束していました。痛みを理由に病院を予定外に受信をすると入院を言い渡されてしまいました。

やっぱりどうしようもなかったのかなあと半分内心ではほっとした所へ、夫君から「嫁さんは病気だからとそんなに簡単にあきらめられません。鍼に良くととても楽になると言いますからもし退院が可能であるなら又診察をしてもらえるでしょうか」と涙声での電話があり、「自分は治療家ですからできる限り全ての力を治療を希望される患者全てに投入しているので拒否をする理由は一切ありません。治療を希望していただけるのならどんな事があっても最後までできる事をつくさせていただきます」とこちらも涙をこらえながら答えていました。

そして、臀部痛は腸が激しく動いた為の一時的な腸閉塞によるものであり、点滴のみで処置が終わり退院後再び通院が始まりました。

便がなくなり腸全体の検査結果は、手術がもともと困難な位置であり患者の体力も考えると仮に手術をしてもとても取りきれないとのことです。化学療法は本人が絶対に拒否をしていました。生命延長に最も効果的なのは人工肛門を腹壁に明ける事ですが見にくい姿になることと癌の進行自体にはささやかな抵抗であり、つまり西洋医学では限りなく『0』に近いアプローチしかなく唯一『1』の出せる可能性を残しているのは鍼灸治療しか考えられないと週二回の治療に三人四脚で取り組む事となりました。

6月に入ると外出時には何ともないものの家にいると常に自覚的には便とも水とも区別のつかない腸液がでてトイレに頻繁に通わなくてはならないと言います。しかし、短時間であれば買い物にも出かけたり食欲もでて非常に喜んでいました。驚いた事に癌そのものが消失した訳ではないのに腫瘍マーカーの数値がマイナスになるなど医者をも驚かせていました。しかし、腸閉塞の時に「鍼灸のような民間療法で何ができる」と怒ったわりにファイバースコープでもわからなかった部分まで診断をしていた事から逆に医者の機嫌を内心では悪くさせていたようでした。

7月に入ると どうしても残便感が気になると訴えられていた所へ腸の流れを良くする点滴が施され下痢が全く止まらなくなってしまいました。小腸の蛇行がよりはっきりと触れるようになり患者もだるさを訴えます。病理考察は変わらないものの触診により違うアプローチも検討しましたが思うような感触が得られず、薬により無理に内臓の動きをコントロールしているのだから鍼はあくまでも自然治癒力を重視するので独自ペースを維持すると治療は全く同じ形で続行しました。下痢は体力を奪うので痛みや発熱はないものの患者は次第に衰弱し腫瘍マーカーも再びプラスの数値を示すようになってしまいました。脉状もかなり改善していたのに虫がはいまわるような感じが再び強くなったものの、むしろ下痢により平べったく脉動を感じるのがやっとという日もありました。

 

    4.死に至る五段階

ここで本論とは少しそれますが、患者とよく話していたエリザベス・キューブラー・ロスの死に至る五段階について話しておきたいと思います。ロス女史は『死と死を見つめるセミナー』として死を目前にした患者に対して「私たちの教師になって下さい」と頼むと、大反対をした弁護士や医者の予測に反してほぼ全ての患者が喜んで話をさせて欲しいと申し出るのです。自分が生きた証を少しでも残せたらと思うのと素直な人間の気持ちの現れだからです。

まず単純な事ですが病気の始まりには衝撃が走ります。

 【第一段階】否定 「自分は癌じゃない」とか「診断ミスに違いない」と病気からの逃避をします。

 【第二段階】怒り 次に怒りを覚えます。これには二通りあり「どうしてこんなに真面目にしていた自分が癌にならなくてはならないのか」と自分に怒るケースと、「周りはどうして注意をしてくれなかったのだ」と他人に責任転化をするケースです。

 【第三段階】取り引き 「神様私はこの病気の原因がハッキリわかりましたので改心しますから救って下さい」とか、ある朝目覚めると担当医がそこに笑いながら立っていて「これは新薬なのだが君の体質に合う事がわかったからきっと治るよ」と声を掛けてくれるなどそれこそあるはずのない取り引きを望みます。

 【第四段階】憂鬱 病気は否定のしようがなくなり、憂鬱の段階となります。

 【第五段階】受容 解脱と言うのか悟りの段階になって死は単なる終わりではない事に気がつきます。『死と成長このおかしなパートナー』とロス女史も言うように、死は人間の成長の最終ステージとなります。

ただ悟りに達する事のできる患者はむしろ少数で、否定や怒りの段階のまま死に至るのは悲しい事です。

 

   5.救急車を呼ぶ

八月に入ると今度は下痢を止める点滴が施されました。すると腸液は垂れ流しのまま便が全く出なくなってしまいました。

運命の八月十三日は前日に病院を予定外に受信したものの閉塞はしていないと何もしてもらえずどうしても初診時のように便を出して欲しいと言います。下痢の時に様々なアプローチを試みてもおもわしくなかったので鍼は独自ペースを守りたいと進言したのですが、夏期休暇もある事だからアプローチを替えて欲しいと言われました。さんざん迷いながら脾虚陰虚証で陰陵泉曲沢と委陽を補いそのまま休ませて他のベッドで処置を初めて間もなく悲なが聞こえてきました。

状結腸に停滞していた便が直腸へ向かって動いてはいるのですが患者は痛みで悲鳴をあげ続けます。ムノ治療や本治法など数分格闘をしましたが患者の苦しみかたから救急車を呼ぶしかありませんでした。

私も夫君の自動車に同上して運ばれた病院へついて行きました。救急隊員も看護婦も好意的で医者も事情をすぐ察知して攻められる事はなく注射により痛みは間もなく鎮静しかかりつけの病院へそのまま転送され、私はすぐ近くだったので空しく歩いて帰るしかありませんでした。

明くる日に見舞いに行くと外科術は行わずに便は排除され意識もはっきりしてはいましたが、交わす言葉が見つかりません。

 

   6.考察

患者の死を聞いたのは夏期休暇が明けてすぐでして、すぐにもお悔やみを申し上げたかったのですが余りに私の治療からの経過が目まぐるしいので忌明けの後と決めました。しかし、親戚が来院した時に「鍼に行くと具合が良いと喜んでいたのに最後は自分で命を取ってしまうなんて」と言う言葉を聞きました。詳しく聞くと入院三日目(運ばれて私が見舞ったのが二日目で、その次の日)に、夕方実母から夫君へ付き添いが変わった直後「ジュースが飲みたい」と頼まれて買い物に出たわずか十分間の間に、七階の病室からの投身自殺だったと言う事です。

私は見舞いに行った時に病室の窓枠は一メートル以上の高い所に作られていた事を覚えていました。例え踏み台を使ったにせよ、点滴のチューブを引き抜き台を持って来るか自力で窓枠によじ登っての投身であり、逆に言えば患者はそれだけ動ける体力を持っていた事になります。この事実を聞いて私は仏前に近づけなくなってしまいました。

治療経過をもう一度整理すると一貫してC血に対する脾虚肝実証で行い結果的に最終回となった時のみが脾虚陰虚証でした。医者の余命宣告からは二ヶ月も長生きであり腸の閉塞時には点滴を受けたものの最も心配をしていた痛み止めは一度も使わずに済みました。一旦は腫瘍マーカーもマイナスとなり家族の時間も戻り身の回りの事は最後まで自分で出来たのに、誰も殺そうとした訳ではないので責める事は出来ないものの無理矢理コントロールを試みる点滴により振り回され鍼治療もとばっちりを受けた事になります。

 

私は死を迎えること自体は誰もが 一度は体験をする事ですから関西弁で言う「しゃあない」と思っています。それよりも問題にしたいのは患者に尊厳ある納得した状態で死を迎えてもらえたのか、悟りに達成出来たのかと言う事です。投身自殺と言う最期は私に大変な内傷を起こさせしばらく立ち直れませんでした。

 「死んでも良いから鍼を続けたい」と言われたのは初めてでした。名誉な事とは思いつつも、正直にはその期間はとても苦しくて身が縮まる思いでした。しかし、結果的に患者は亡くなったのですが 医者をも驚かせる成果を上げたのは“漢方はり治療”の目指すところであったと思います。要するに日本の社会の中でどのように「死」というものが捉えられるかによって、我々の手の内で亡くなられる患者はこれから増えてくることでしょう。

その日の為にも死に対する概念や思想、そして“漢方はり治療”の腕を益々磨いて行かねばならないと、そして後進の為にも今我々が頑張らなくてはならないと決意を新たにしています。

 

  最後に、この患者の最高の供養は治験として発表をする事だと信じましたので、冥福を一緒に祈っていただきたいと思います。




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